2010年1月14日木曜日

排斥:ものみの塔という椅子を支える一本の脚 by Gary Busselman

排斥:ものみの塔という椅子を支える一本の脚 by Gary Busselman

"Shunning, a one Legged Stool," by Gary Busselman; Free Minds Journal. http://www.freeminds.org/buss/shunnin2.htm
(2002年4月22日掲載・2003年8月10日改訂)
ものみの塔が「普通の宗教の一つ」になるために変わらなければならないものとは何だろうか?

私の意見では、それさえ変えればほとんど一夜にしてものみの塔が「普通の宗教の一つ」になる慣行とは、排斥処置である。他の教理については、私が調べた多くのグループと大差はない。コントロールの強いグループを見分ける鍵は、それが服従を強制するかどうかである。服従の強制とは、(1) ほうび (2) 罰 (3) ほうびと罰の組み合わせ、そのいずれかを用いていることによって見分けることができる。このうちのどれかが当てはまるなら、私はそのグループが強制された服従、つまり強制による一致を用いていると見なす。

ものみの塔の近年の歴史は、服従の強制、極度の不当威圧、威嚇を過度に用いる一方で、自らが非難する体制を巧妙に操って、信者には社会的恩恵を、組織の指導者には信教の自由による法人団体としての保護を引き出すという矛盾に満ちた分離主義を実践してきたというものであった。この結果、ものみの塔は多くの場合、社会からの回避を教えながら信者を囲い込み、信者に自分の行動を心の奥底の自分や内外の批判者に対して正当化させてきた。これは物理的には人をがんじがらめにし、感情的には孤立させ、我々の多くはその状況で極めて大きな葛藤を味わってきた。

ものみの塔の教理は極めて流動的で、どうしてもそれでなくてはならないものとは思えない。20世紀だけを見ても、ものみの塔は、問題に対する見解、解釈、解決手段を大幅に変更してきた。唯一変わらずに残っている教理といえば、もし地上に彼らだけしか存在しなければ無意味なもの、つまり「信じない」という教えである。例えば、ものみの塔は地獄の火を「信じない」、三位一体を「信じない」、魂の不滅を「信じない」。これらは反対のための教理であり、自分たちと違うことを信じるグループという相手がなければ、成立し得ないものである。あるグループが神を崇拝しているのか、分離主義・孤立主義的運動であるのかを見分ける良い判断基準は、それらの教えや慣行を調べて、誰かや何かに「反対して」いなくとも自ら存在しうるものか、確かめることである。敵の存在があって一致するグループは宗教ではなく、軍隊である。憎しみには焦点が必要であるが、愛にはその必要がない。慈愛に満ち、神を崇拝するグループは対立せず、裁かず、異端者を排撃しない。それは、自分自身、友人、家族、あなたが理解する神との関係を育むのに安全な場所である。

単に排斥の慣行を良心上の問題にするだけで、ものみの塔は一夜にして主流派教理に乗り換えることができる。それ以外のものはさして重要な問題ではない。悲しむべきなのは、ものみの塔の指導者がこのことを承知していることである。

0 件のコメント:

コメントを投稿